心に若さを、永遠に灯し続けている人になろう
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」で始まるサミュエル・ウルマンの「Youth」、日本では「青春(の詩)」をご存知でしょうか。「Youth」は、彼が70歳を超えて書かれた詩です。そして、「大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受け取る限り人の若さは失われない」と答えが導き出されます。心に若さを、永遠に灯し続けている人を、私たちは “夢人”と呼びます。
※松永安左エ門訳を引用
◆◇目次◇◆
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1 夢人シリーズ:伊能忠敬 編〈前編〉
2 夢人コラム:生涯現役のコツ
3 夢人になるためのヒント:珠玉の言葉2
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┃ 1┃夢人シリーズ:伊能忠敬 編〈前編〉
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江戸時代に遡って「生涯現役」のお手本といえば、伊能忠敬の名前を思い出さずにはおられません。江戸時代の73年の生涯は、今でいうと100歳にあたるほどの長命でした。
1745年、上総の国(千葉県)小関村で名主を務める小関家に生まれた忠敬は、幼名を三治郎といいます。生家は九十九里浜の真ん中あたり、いわし漁の網元でした。三治郎が6歳のとき、母親が亡くなりますが、父親は幼い三治郎を小関家に残し、10歳になって実家に引き取りました。父親の実家(神保家)も名門で、酒造業を営む大名主でした。
三治郎は、幼いときから学問が好きで、とくに算術に優れていました。干鰯(ほしか)の産地である九十九里の村々には商人の出入りが激しく、網元の小関家は彼ら商人たちと深くつきあっていました。この上総、下総あたりの農村には和算の文化が広がっていて、三治郎はそうした環境に育ったのです。父親の貞恒は、相当な教養人であったそうで、塾を開いています。三治郎は父親から学問の基本を学びました。16歳で三治郎は佐忠太と名乗り、土浦の医師のもとで経学医書を学んだと伝えられています。持ち前の勤勉さから、幅広く教養を身につけました。佐忠太が17歳のとき、近くで土地改良事業があり、算術の知識を見込まれた佐忠太は、現場監督を依頼されます。このときの仕事ぶりが評判になり、小関、神保家の両家に縁のある仲介のすえ、伊能家への婿入りが決まりました。
実は伊能家は、家業が立ち行かず窮状にあったのです。忠敬は質素倹約を奨励し、酒造り以外に薪問屋、米穀取引の仲介などを起ち上げ、およそ10年で家業を立て直します。その当時の通称は源六、後に三郎右衛門と改め、その後、格式を高めるために林大学頭の門(江戸時代の昌平黌、昌平坂学問所)に入り、名を忠敬と改めたのです。
忠敬は36歳にして大名主となりますが、ちょうど世間では江戸の四大飢饉の一つで、近世では最大の飢饉といわれた「天明の大飢饉」が起こります。岩木山(青森)と浅間山(長野)が噴火し、その降灰によって農作物が壊滅的な打撃を受けます。一説では2万人あまりが餓死し、疫病で飢饉の間に90万余人の人口減があったとされます。忠敬が住む佐原村も浅間山の大噴火による不作に加えて、利根川の大洪水が起こり、大きな打撃を受けました。しかし、忠敬は同じく村の大名主と相談し。村で創設した永久相続金を救済に当て、家業の収益の相当部分を村民のために使いました。その結果、佐原村からは一人の餓死者も出ませんでした。
伊能忠敬といえば、「日本地図」のイメージが大きいのですが、実は幼少の頃からその天才ぶりは顕著で、人生の前半期は商売人、今でいう起業家として大成功を収めています。「学問に対して熱心だった」、「勤勉に働いた」、「倒産寸前の店を立て直した」、そして、「私財を投げうって多くの人の命を救った」。これだけでも立派な人生であったと言えるでしょう。
後編では、伊能忠敬の50歳からの第二の人生について言及します。
※「干鰯(ほしか)」……干した鰯のことで、食用のほか、肥料、飼料に使われた。
文責:木藤文人
*** もっとおススメ本 ***
●『生涯現役人生』
―100歳まで幸福に生きる心得
/大川隆法(著)
/1,650 円(税込)
(2012年11月発刊)
〈本文より抜粋〉
忠敬が日本全国を歩いて測量をする過程では、困難なことも数多く起きています。たとえば、測量の途中で、忠敬は五回ほど病気を経験しています。(中略)しかし、そのようなことは言い訳にせず、自分の志を成し遂げたのです。平均寿命が四十歳だった時代に、五十六歳から測量を始め、日本地図づくりの仕事を成し遂げたことは、本当に大したものです。また、忠敬が、いよいよ、「全国行脚に出よう」と決めたとき、“不吉な前兆”が三つも起きたという話が伝わっています。(中略)一つ目は、「忠敬が旅に出る前、自宅の梁に巣をつくっていたツバメの子が落ちて死んだ」という話です。(中略)その次は、「忠敬が家を出ようとしたとき、わらじのひもがプツッと切れた」という話です。
そして、三つ目は、「忠敬が家を出たあと、実家の酒桶が破裂した」という話です。忠敬の家は酒造業などを営んでいましたが、その酒桶が、突然、バーンと破裂したのです。(中略)そこで、家の者が忠敬を追いかけ、「これは、いよいよ、『行くな』という天の意思表示に違いない。だから、絶対に行ってはいけない」と止めました。しかし、忠敬は、「酒桶の破裂など、ときどきあることではないか」と言って出かけていったのです。このように、「三つの凶兆を振りほどいて出発した」という話だけ聞くと、伊能忠敬は、迷信など信じない唯物論者のようにも思えますが、実際の忠敬自身は非常に信仰心の篤い人だったそうなので、これは、後世の人がかなり誇張してつくった話なのだろうと思います。要するに、「伊能忠敬の仕事には、それほどの困難があった」ということを表現しているのでしょう。
(PP.76-79)

