人生の大学院 幸福の科学 大学シリーズ (#2)
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┃ 2┃Pの書斎より:自己中にならないために
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ハッピー・サイエンス・ユニバーシティ プロフェッサーの金子一之さんのコラムをお届けします。

「嫉妬心」については、第6回 『「未来創造学」入門』のコラム「嫉妬心を抑えるには」で言及しましたので、今回は、「祝福の心」を中心に考えてみます。
第一に、悟りとしての祝福の心の持つ意義です。人間の不幸感覚の根っこには、「自他の比較」があります。なぜなら、自他の比較から生まれやすい感情が、相手に対する嫉妬心だからです。嫉妬心は本能的なもので、誰でも努力せずとも出てくる感情ですが、祝福の心を持つには、相当の努力が要ります。それは、自分自身を変える努力だからです。具体的には、自らが発する言葉を換える努力です。たとえば、悪口や陰口、批判の習慣を改め、人の長所を発見し、ほめる習慣に変えることです。ネガティブな感情と言葉が、ポジティブな言葉に変わっていけば、他の人から、「あなた、最近変わったね」と思われるはずです。言葉を変える努力は、自己変革への努力そのものなので、一つの悟りの境地に至るのだと思います。
第二に、自他を救う力としての意義です。人間は嫉妬心から解放されれば、他人を裁く心や憎しみの心、被害者意識や恐怖心からも解放されます。祝福の心は、自他の存在を肯定するわけですから、苦しんでいる自分も、自分を不幸にしていると考える相手も許す力が生まれるからです。人間は霊的存在なので、相手への祝福の念波、愛の思いは必ず通じ、自他ともに幸福な気持ちになれます。
第三に、ユートピア建設の力としての意義です。嫉妬心は、他人の不幸を喜ぶ心で、調和を破壊する心なので、明らかに地上をユートピアにする力とは逆のものです。つまり、他人の成功や幸福を嫉妬せず、それを祝福し自分の幸福と思える心は、間違いなくユートピアを創造する力です。
「祝福」という言葉を掘り下げてみると、まさに心境の高みを伴った深い愛と悟りに到る大切な心の修行であるとわかります。この「祝福の心」の意味は、経典『心を癒すストレス・フリーの幸福論』の第3章に説かれています。ぜひ、学んでみてください。
※第6回コラム「嫉妬心を抑えるには」参照
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┃ 3┃この感動をあなたに~映画編:『OKAは手ぶらでやってくる』
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なぜ、栗本英世は「OKA(オカ)」と呼ばれたのでしょうか。「OKA」とは、現地カンボジアの言葉で「チャンス」という意味。そう、「OKA」に会うと、学校に行けるチャンスがあるからです。
カンボジアと言えば、かつて「生ける悪魔」と呼ばれたポル・ポトの時代、およそ200万人に及ぶインテリ層、知識人たちが虐殺されました。毛沢東の思想「マオイズム」を受け継いだポル・ポト政権成立直後、ベトナムとの対立が激化し、やがて大規模な内戦へと移行します。1978年末、ベトナム軍はカンボジア領内に侵攻、翌年1月に民主カンプチア政府(カンボジアを支配していたポル・ポト政権の正式名)は首都プノンペンを放棄し、タイ国境の山岳部へと逃げ込みます。それはやがて1980年以降の大量の「難民問題」の引き金となります。
OKAこと栗本英世は、1980年代の後半から、東南アジアで人身売買の被害の子どもたちを救うために活動を始めました。2002年以降、政府やNGOによって30万発以上と言われる地雷が撤去されましたが、ポル・ポト派やカンボジア政府軍、ベトナム軍によって、当時は推計600万発の地雷が埋設されたと言われます。不発弾による被害は後を絶たず、多くの尊い命が失われ、また、四肢を失くした難民はおよそ1万人に及びました。
さて、栗本は若き時代に修道士(牧師)を志したことがありました。ところが、牧師になるための試験の当日、どうしても困っている知人を助けたいがゆえに試験を受けませんでした。栗本の師匠は、何としても試験を受けるよう諭しますが、彼はこうした教会の姿勢にも疑問を持ちます。まるで、お祈りの時間には「修道院規則」を持ち出して、手術や看護の休止を命じる様子を描いた映画『尼僧物語』を彷彿とさせます。
その後、OKAは現地の子どもたちの自立支援に立ち上がり、資金を募るために滋賀県の故郷とカンボジアを往復しながら、現地に草ぶきの寺子屋を建設。「単に与えるだけでは、それに慣れてしまい、努力をしなくなる」というのが彼の持論でした。識字教育を進めた寺子屋は、現在では公立高校へと生まれ変わっています。相手の喜ぶ顔を見るのが、この上のない幸せ。心に正直に生き抜いたOKAは、2022年に71歳の生涯を閉じました。
文責:木藤文人
『OKAは手ぶらでやってくる』公式サイトはこちらへ
(『OKAは手ぶらでやってくる』ポスター画像は、https://kobe-eiga.net/programs/1940/ より引用)
*** 参考文献 ***
悪魔は、念力の強い指導者のところに入った場合には、手下を使うことができるので、〝組織戦らしきもの〟をすることができます。もっと規模が大きい場合には、ナチスのように国家レベルでやられることもあり、その結果、六百万人ものユダヤ人が殺されたりします。あるいは、ポル・ポト政権下のカンボジアのように、二百万人が「されこうべ」になったりします。ポル・ポトに悪魔が入ったのは間違いないでしょう。「光の天使は、いったい何をしているのだ。
そういう人々を救えないのか」と思うかもしれませんが、仏教では、戦うことを教えていなかったために、どうにもならなかったところがあるかもしれません。(中略)そういう状態が永遠に続くことはないのですが、一時期なら悪魔が国家を乗っ取ることも可能なのです。ここが悪魔との戦いにおいて難しいところです。政治的な指導者や、大きな組織を動かす人のところに悪魔が入った場合には、ある程度の組織を動かす戦い方ができる可能性があるのです。(PP.78-79)
※以上『エクソシスト入門』より抜粋
与えることからはじめてごらんなさい。与えるとは、どうすればひとりでも多くの人々がしあわせに生きられるかを考えながら、日々生きるということです。与えるとは、ひとりでも多くの迷える人々の心に、愛の光を投げかけてゆくということです。また、ひとりでも多くの人々を、困難と挫折の人生から立ち直らせ、知恵と勇気の日々を送らせるかということです。知恵をもって、与えなさい。物質を与えることだけが、与えることではありません。慈悲魔になることだけが、与えることではないのです。真に与えるとは、真に人を生かす道であり、真に人を生かすためには、知恵がなければならないのです。だからこそ、私たちは、知恵をもって、勇気をもって、与える人生、すなわち、無償の愛を人々に与える人生を歩んでゆこうではありませんか。(PP.151-152)
※以上『太陽の法』より抜粋
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