心に若さを、永遠に灯し続けている人になろう
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」で始まるサミュエル・ウルマンの「Youth」、日本では「青春(の詩)」をご存知でしょうか。「Youth」は、彼が70歳を超えて書かれた詩です。そして、「大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受け取る限り人の若さは失われない」と答えが導き出されます。心に若さを、永遠に灯し続けている人を、私たちは “夢人”と呼びます。
※松永安左エ門訳を引用
◆◇目次◇◆
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1 夢人シリーズ:伊能忠敬 編〈後編〉
2 夢人コラム:お返しの人生
3 夢人になるためのヒント:健康と幸福へのヒント1
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┃ 1┃夢人シリーズ:伊能忠敬 編〈後編〉
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伊能忠敬の第二の人生は50歳を過ぎてからでした。ちなみに江戸時代の50歳は、今でいうところの90歳代の後半になります。隠居が認められ、勘解由(かげゆ)を名乗りますが、後世に遺す仕事をやりたいと思い立ち、すでにその実力を認められていた算術や測量学を活かし、当時としては移行期だった「暦学」、つまり、暦(こよみ)や天文学について学ぶことを決意します。
忠敬が暦学の研究に興味を抱いた時代は、折しも近代科学の成長期であり、数多くの研究者がこの道を目指していました。なかでも麻田剛立を中心としていた大阪の民間の研究グループは呼び声も高く、麻田は日食の予言を的中させたと言われます。幕府はその麻田に白羽の矢を立て、暦方という天体運行や編暦の担当を打診します。しかし、麻田は高齢を理由に断り、最も信頼の厚かった高橋至時らにその職を譲ります。
1795年、忠敬が隠居して江戸へと赴いた時を同じくして、二人は江戸へとやってきたわけです。当初、高橋は門人となった忠敬のことを「年寄りの道楽」と思っていましたが、その熱心な姿や熱意に打たれ、当時最高の暦学と天体観測の実習を教えます。忠敬の心は、青年のままで、やがてその技術は門下のなかで押しも押されもせぬ存在となっていきました。
さて、18世紀の後半と言えば、鎖国日本の近海に外国の艦船が姿を現し、盛んに通商を求めてきた時代です。当時、蝦夷(北海道)にやってきたのは帝政ロシアでした。蝦夷地を護るために、幕府は探検や調査、沿海測量を実施しましたが、絵地図のようなものしか出来ませんでした。そこに目をつけたのが至時です。国防のためには精密な地図が必要だと幕府を説得。測量や地図作成の実務担当者として、予め至時は忠敬に目星をつけていたのです。いや、忠敬がいたからこそ、この計画を思い立ったとも言えるでしょう。
忠敬の測量技術は一流、名主として佐原の村を統率していた力があり、財力もありました。自費が前提でなければ幕府の許可を得ることは難しかったため、財力は重要でした。もちろん、忠敬は喜んで引き受けます。当初、至時の弟子であっても、忠敬は一介の百姓、浪人として、その実力を信用されておらず、「測量試み」と記されています。「銀七匁五分」というのは、金一両の8分の1、すなわち2朱にあたります。当時の一両は、およそ8万円。つまり2朱は10,000円となり、一行は6人ですから、宿泊費、食費などを考えれば、多大な自己資金を投入しなければ遣り繰りできなかったと想像されます。
江戸をたった一行は、30数日かけて蝦夷地に入ります。蝦夷地は難路続きで、1日に4里から5里進むのがやっとでした。それでも半年の歳月を経て、測量を終えて一行は江戸に戻ります。約2か月後に地図は完成。後世の参考となる立派な地図で、それ以降、幕府の忠敬を見る目が変わります。忠敬はこれらの業績と天明年間の善行により、幕府より苗字帯刀が許されました。
第1回目が「蝦夷地」、2回目「相模伊豆海岸より奥州海岸」、3回目「出羽・越後」、4回目は「東海地方沿岸から北陸沿岸」と続きますが、4回目の測量が終わった2か月後、生涯の師と仰いだ至時が39歳の若さで病死します。忠敬の落胆ぶりは相当なものでしたが、その悲しみを乗り越え、測量は続きました。そして、至時の死から14年、忠敬も天命を全うします。遺言により亡骸は浅草の源空寺に、高橋至時の墓と並んで葬られています。
文責:木藤文人
*** もっとおススメ本 ***
●『あなたは死んだらどうなるか?』
―あの世への旅立ちとほんとうの終活
/大川隆法(著)
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(2018年9月発刊)
〈本文より抜粋〉
「第二の人生」の生き方で、みなさんの参考になるような人物としては、伊能忠敬という人が挙げられます。この人は、「全国を歩いて測量し、日本地図(大日本沿海輿地全図)をつくった人物」として有名です。伊能忠敬は、測量の仕事をするに当たり、数え年で五十一歳のときに勉強を開始しました。当時は、平均寿命が四十歳ぐらいだった時代です。そのような時代に、忠敬は、五十一歳にして、自分よりずっと年下の先生に入門し、天文学や測量術、数学的な計算などを勉強したわけです。そのことに対し、周りの人はあきれ返っていたようです。さらに、忠敬が日本全国の測量を開始したのは五十六歳のときです。その年齢は、まさしく、幸福の科学の「百歳まで生きる会」(満五十五歳以上の信者を対象とした集い)のスタート点でもあります。
忠敬は、五十六歳で測量を開始し、七十二歳までの二十年近くの間に全国をくまなく歩いて、日本地図を作成したのです。忠敬が日本全国を歩いて測量をする過程では、困難なことも数多く起きています。例えば、測量の途中で、忠敬は五回ほど病気を経験しています。特に、山陰地方を測量したときには、死にかけたほどの大きな病気になりました。しかし、そのようなことは言い訳にせず、自分の志を成し遂げたのです。平均寿命が四十歳だった時代に、五十六歳から測量を始め、日本地図づくりの仕事を成し遂げたことは、ほんとうに大したものです。
(PP.103-106)

