心に若さを、永遠に灯し続けている人になろう
「青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ」で始まるサミュエル・ウルマンの「Youth」、日本では「青春(の詩)」をご存知でしょうか。「Youth」は、彼が70歳を超えて書かれた詩です。そして、「大地より、神より、人より、美と喜悦、勇気と壮大、そして偉力の霊感を受け取る限り人の若さは失われない」と答えが導き出されます。心に若さを、永遠に灯し続けている人を、私たちは “夢人”と呼びます。
※松永安左エ門訳を引用
◆◇目次◇◆
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1 夢人シリーズ:稲盛和夫 編〈後編〉
2 夢人コラム:天命と思える仕事
3 夢人になるためのヒント:珠玉の言葉1
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┃ 1┃夢人シリーズ:稲盛和夫 編〈後編〉
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若かりし日の稲盛は、大学の教授の伝手(つて)で仕方なく入社した碍子を扱う会社で不満を鬱積させていました。しかし、一転、会社を好きになろうと努力し、ファインセラミックス(特殊磁器)の研究に没頭し、業績を上げます。その後、上司と研究開発の方針の違いで対立し、稲盛が会社に頼んで入社させた部下らとともに独立。1959年に京都セラミック株式会社(現京セラ)を設立します。京セラで新しい成長戦略を描いたときに掲げたスローガンは「新しき計画の成就は、只不撓不屈の一心にあり。さらばひたむきに只想え、気高く、強く、一筋に」でした。この言葉は、積極的思考を説いた中村天風の言葉であり、また、稲盛がJAL再建の際に示した「不撓不屈の一心」にもつながってきます。
稲盛伝説で有名なのは、松下幸之助翁の「ダム式経営」の講演会でのエピソードでした。ダム経営の具体論を尋ねた質問に、幸之助翁の答えは「そう思わんといけまへんぁ」でした。稲盛はこの言葉を、「思う」ということがわれわれの人生をかたちづくっており、「思う」からこそ行動し、言葉に出すのだと捉えたのです。そして、それはやがて潜在意識に透徹するほど強く持続した願望を持つことへと昇華していきます。稲盛の言葉は「努力」一つにせよ、深い意味がありました。「私なりに」ではなく「誰にも負けない」努力をしているかなのです。率先して、誰にも負けない努力をしているか、企業として地味な努力を一歩一歩、日々絶え間なくつづけているか……など。また、JAL再建においては、一人ひとりが当事者意識を持つということを念頭に、リーダーの意識改革を促し、それがJAL再生へと導いたのです。
さて、稲盛が「京セラ」に続いて取り組んだのが、1984年、通信事業の自由化に伴う日本の電気通信事業の大改革でした。同年、第二電電企画株式会社(現KDDI株式会社)を設立。その時の本部での勉強会では、第二電電設立に際して「大義名分を持て」と鼓舞したといいます。そもそも日本の通人事業は電電公社(NTT)の寡占状態であり、長距離電話料金は世界に比肩してあまりにも高かったのです。その時に稲盛が常に心に問いかけていたのは「動機善なりや、私心なかりしか」でした。幼き頃から涵養してきた宗教的素養が、このあたりに見え隠れしています。その前年、1983年には、稲盛の経営哲学を学ぶ「盛和塾」が京都で始まります。1997年、65歳の時に臨済宗妙心寺派円福寺にて在家得度。2002年には「盛和塾」生主催の市民フォーラムで「人はなんのために生きるのか」と題して講演。2016年までの全国59カ所、総動員数は102,178名に及びました。
稲盛は、自身の人生を通じて「経営者はどんな逆境に置かれても、自分の人生をポジティブに見ること」、そして、「善き心で善き行いを続ければ、すばらしい世界が訪れること」が大切だと語ります。そして、「偉大なる力を得る」について、まずは「自力」として、経営者の力を最大限に発揮することを掲げ、次に一つ目の「他力」、つまり従業員の協力を得ること。そして、もう一つの「他力」であるこの世に存在する偉大な力、つまり「偉大な天の力」を自分のものにできるかどうかが重要だと語りました。2022年、8月に永眠。90歳、まさに生涯現役の経営者人生でした。
文責:木藤文人
参考文献:『ある少年の夢 稲盛和夫はいかに人生を切り開いたか』加藤勝美著(日経ビジネス人文庫)/『熱くなれ 稲盛和夫 魂の瞬間』編者:稲盛ライブラリー+講談社 「稲盛和夫プロジェクト」共同チーム/『経営12カ条 経営者として貫くべきこと』稲盛和夫著(日本経済新聞出版)
*** もっとおススメ本 ***
●『稲盛和夫守護霊が語る 仏法と経営の厳しさについて』
/大川隆法(著)
/1,540 円(税込)
(2013年5月発刊)
〈本文より抜粋〉
稲盛氏は、昭和七年生まれで、年齢的には私の母と同じぐらいかと思うので、すでに八十歳ぐらいになるでしょう。そのような方が、国家緊急のときに、「あなたのほかにできる人がいないから頼む」と、JALの再建を頼まれ、それに取り組むことは、かなり厳しい仕事だったのではないかと思います。
これについては、私も危ぶみました。かなり高名な方ですし、八十の年が見えて、もう余生を安穏に送られたほうがよいときかと思うころに、あれほど大きな会社の、非常に厳しい経営体質を立て直すなどということは、難行苦行そのものでしょう。「これは、それほど簡単にできることではない」と思い、「晩年に挫折したり、晩節を汚すような感じになったら嫌だな」と、私も心配していたのです。(中略)
稲盛氏の改革は、荒業のように見える、かなり厳しいものだったため、最初は周囲の反対もそうとうあったかと思いますが、見事に立て直しの路線に乗せられました。ここに、私は、経営者の、ある意味でのすごさといいますか、偉大さのようなものを感じました。政治家の国家経営の甘さなどと比べ、経営者としての「身を切るような厳しさ」を感じたのです。
(PP.16-18)

