三島由紀夫、川端康成の霊言
現代日本への憂国のメッセージ
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いまの日本に、伝えたいこと。
そして私たちが知るべきこと。
三島の過激な主張は正しかったのか?
川端康成が到達した「枯淡の境地」とは
日本が世界に誇る文学者2人の霊言の対比から、
浮かびあがってくる真実。
<三島由紀夫>
◇1970年の衝撃の自決、その真相を本人が激白
◇「憲法改正」「自衛隊の決起」を促した当時の真意とは
◇戦後日本を無力化した「唯物論」と「平和教」
◇いまだ変わらぬ国論に対する苛立ち
<川端康成>
◇三島の過激な思想の限界と問題点を鋭く指摘
◇習近平の焦りが中国の敗北を招く
◇日本神道の特徴と欠けている観点とは
■■ 三島由紀夫の人物紹介 ■■
1925~1970年。日本の小説家、劇作家。東京生まれ。東京大学法学部卒。代表作は『潮騒』『金閣寺』『憂国』『豊饒の海』など。晩年、民兵組織「楯の会」を結成し、右翼的政治活動を行う。1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地において自衛隊員にクーデターを呼びかけるが果たせず、割腹自殺した。
■■ 川端康成の人物紹介 ■■
1899~1972年。小説家。大阪府生まれ。東京帝国大学(現・東京大学)文学部国文学科卒。卒業後、横光利一らと「文藝時代」を創刊。一高時代の伊豆旅行の体験をもとにした『伊豆の踊子』などを発表し、新感覚派の代表作家として活躍した。日本的美意識を追究し続け、1968年、日本人初のノーベル文学賞を受賞。代表作に『雪国』『山の音』『眠れる美女』『古都』などがある。
◇◇ 霊言・守護霊霊言とは ◇◇
「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のことをいう。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり、「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。外国人霊の霊言の場合には、霊言現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。
また、人間の魂は原則として六人のグループからなり、あの世に残っている「魂のきょうだい」の一人が守護霊を務めている。つまり、守護霊は、実は自分自身の魂の一部である。したがって、「守護霊の霊言」とは、いわば本人の潜在意識にアクセスしたものであり、その内容は、その人が潜在意識で考えていること(本心)と考えてよい。
コラム
国を憂いて自決した三島由紀夫
その魂の本質が、ついに明らかに

1970年、自衛隊駐屯地で割腹自殺した三島由紀夫。その真意とは何だったのか。そしてこの50年後の国防危機をどう考えているのか。本書は2020年12月、著者の元に現れた三島の霊言である。コロナ禍に乗じて覇権をめざす中国や核を持つ北朝鮮に脅かされる日本。「あの頃に軍備をしていれば」と憂い、わが国に巣くう「平和教」を嘆く。だが短絡的ともいえる過激な思想に死角はないのか。川端康成の霊言との対比によって、その魂の本質が浮かび上がる。
目次
第1章 三島由紀夫の霊言 ―没後五十年、日本の体たらくを叱る―
1 三島由紀夫が語る「日本への憂い」
2 自決を通して三島由紀夫は何をしたかったのか
3 三島由紀夫の価値観に潜む問題点
4 明らかになる三島由紀夫の「魂の本質」とは
第2章 川端康成の霊言 ―「三島由紀夫の限界」と「日本の国防」を語る―
1 川端康成と三島由紀夫の「美学」の違いとは
2 川端康成から見た三島由紀夫像を語る
あとがき
よく一緒に購入されている本
五島 様2025/12/11
★★★★★「その後」の欠如
2025年11月の下旬に、親しくさせていただいている会員の方から「そう言えば、君三島が好きだったよね、興味ある?霊言」と突然電話が掛かってきて、その方から三島の霊言や他の文豪の霊言もまとめて貸していただけることになり、つい先日読み終わりました。
この三島由紀夫の霊言を通して、自己破滅型の文学には何が足りないのかという僕の人生を通しての問いに一つの答えが出たような気がします。
僕自身、若いころは三島の鮮烈な生き方や吉田松陰の思想などにも憧れることはあり、陽明学なども学んだこともあるのですが、何か足りないものを感じて、最後は佐藤一斎や福沢諭吉、渋沢栄一、勝海舟といった人たちの思想に落ち着きました。
というのも本霊言の三島の発言にもよくあらわれているのですが、彼には行動の理論はあっても責任の原理がないのです。
三島の短編には『詩を書く少年』というものがありそこでは三島の『金閣寺』に対してある人物が「君は天才だね。でもこれは小説じゃない。これは詩だね」と言ったことをうろ覚えで正確な引用ではありませんが象徴的に書いていたはずです。
確かに彼の『金閣寺』は最後に火をつけるという行動に踏み切った主人公の「その後」の結末を描いていません。その行動が社会的にどういう意味を持ち、またどのような末路を辿るのかという結論の部分から逃げているのです。
昔から詩にはそういう傾向があります。確かに詩は人の心情を唯美的に綴るのですが、それをそのまま行動に表した時には現実としてとても醜い結果が現れます。そこに調整の原理、知恵の介在が不足しているからです。もっと具体的に言えば劉邦や家康のような醜さに耐えて成功し人生を完成させるという美学を否定しているのです。
もちろん、唯美的であってもそこに責任の原理が働く場合は反省し人生を復活させることも可能でしょう。しかし、三島の文学にはそのような視点はありません。死んだら輪廻転生してやり直せばよいのだというような開き直りがあるようにも見えます。
また、このような安易な思想は破滅型の文学には顕著にみられる傾向の一つだと僕は感じています。
一見、時代に即した啓蒙のように見えながら「その後」の責任を問う部分や実学の基礎付けがないものは文学であれ光明思想であれ、あるいは禅の一転語であれ非常に危険なものだと思います。
この霊言の精読を通じて気づいたことを誰かに伝えたくて稚拙ながら文章を送らせていただきました。本当に学びになる霊言ですので文学ファンの皆様にも勧めていきたいと思います。
